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​伝統芸能

■文弥人形
 文弥人形は1870年に羽茂大崎出身の人形使いである大崎屋松之助が人形芝居の地として佐和田町沢根で文弥節太夫伊藤常磐の一に舞台で語らせたのが始まりと言われています。しかし、羽茂大崎ではそれ以前に人形芝居が行われていたともいわれています。羽茂大崎の歴史書『山里の人びと』によるとそれは天保年間の頃、大崎の住民5人が伊勢神宮への参官のおりに西京で人形芝居を見て、えらく感動し、その技を会得して手製の人形で演じたことがきっかけだったそうです。

​ 前述した松之助は、人形の頭を前後に動くように改造したり、腰幕の高さ、御殿の新設等、工夫を重ね、100年以上続く文弥人形の基礎を作りました。松之助は大崎に居る時から人形を製作しており、彼の彫刻した人形も残っています。羽茂大崎には大崎座という文弥人形の劇団があり、この劇団はその当時から続いている古い人形座です。現在の座長は松之助の実家の人物で、2代目大崎屋松之助を襲名しています。文弥人形は現在、国の重要無形民俗文化財に指定されており、大崎座による文弥人形芝居は「大崎そばの会」にて鑑賞することができます。

今も息づく羽茂大崎の芸能

かつてより育まれてきた大崎の精神文化

それは伝統芸能として今に残っています

■ちょぼくリ
 ちょぼくりとは江戸時代の大道芸の香りを色濃く残した座敷芸です。

 ちょぼくりは比叡山の小坊主が、山主(貫主)からの訴状を携え江戸へ登ったが、なかなか返事がもらえず、路銀(お金)が無くなったため、路上で面白いことを唱え、小銭稼ぎをしたのが始まりといわれています。その後、江戸でこのちょぼくりは大流行し、全国に広まって行ったようですが、どういうわけか集落で見られる「ちょぼくり」は北海道から移住した人を介して伝えられたものといわれます。

 一時は時代の流れとともに疎んじられてしまい、戦後は大崎で「ちょぼくり」は姿を殆ど消していました。しかし、「ちょぼくり」の復活を求める声があがり、再び余興として登場しました。今では「ちょぼくり」は大崎でしか見られないと言われるほど貴重な芸能で、佐渡百選の一つとなっています。

■御万歳
 御漫才とは古い漫才の一種で、太夫と才蔵役の2人で演じられる興行芸(門付け芸)です。現在の上方漫才の祖先とされています。

 羽茂大崎の御漫才は旧羽茂町の浜に近い集落で行われていたものを羽茂大崎へ嫁にきた人が里帰りした際に習ってきて、そばの会の芸にしたことが始まりだといわれています。内容は目出度づくしですが、中には放送禁止用語もあって、会場でしか全部聞けない面白い芸です。

■蟹舞い
 昔、お婆さんが孫の子守をしながら唄った「かにどん」という唄に踊りなどの動作を付けたものです。

 写真のように蟹がカラスにいじめられており、この様子から他人をからかったり、いじめることは良くないということを説いています。蟹役の方は四つん這いになって、蟹の手足を動かしており、大変技術がいるものとなっています。

■相撲甚句
 相撲甚句とは相撲の力士が土俵で余興的に唄い、それに合わせて踊ることです。

 昔は佐渡中で素人相撲が盛んで、羽茂大崎の神社に土俵があり、四股名を持った相撲取りがいました。その所為かこの地域でも唄の古い文句が残っています。踊りは約60年前、町の婦人会が発案し、相撲取りの扮装をして踊ったのが最初で、「大崎そばの会」が始まると同時に羽茂大崎の女性達が習いに行き、芸として発表されました。以来ずっと名物芸として定着しています。さらにおまけとして羽茂甚句(チヤサ)も踊ります。

■能楽
 佐渡島では伝統芸能として能楽があちこちに残っており、その起源は室町時代に流刑された世阿弥であったといわれてますが、直接の契機として、江戸時代初期に金山開発のために訪れた能楽師出身の大久保長安(おおくぼながやす)の存在が挙げられています。1604 年赴任時のこの長安一行には、大和国の「能師」常太夫(つねだゆう)・杢太夫(もくだゆう)を始め、「脇師」や「謡(うたい)」、囃子方の笛、太鼓、大鼓、小鼓、狂言師もおり、彼らが能楽を奨励したことで島内に伝播し、庶民の間にも広がったといわれています。

 能は神に奉納する神事能として佐渡に定着していったため、佐渡の能舞台のほとんどが神社の拝殿を兼ねたものや付属するというかたちになっています。しかし、時代の流れとともに能楽は庶民の娯楽という側面をもつようになり、現在も伝統芸能として佐渡各地で能楽を見ることができます。

 残念ながら現在、羽茂大崎で能楽を観ることはできませんが、白山神社には現在も能舞台が残っており、かつては羽茂大崎の能楽師のみで能を演ずるほど盛んだったといわれています。

■鳥刺し
言葉の意味は広辞苑によると万歳の一種とありますが、大崎に現存しているものは少し趣が違います。鳥刺しとは、古い職業名でお殿様が鷹狩りをする際、前もって小鳥を獲っておく商売で、後世に至っては単なる鳥小屋まで鳥刺しと呼ばれたといわれています。

 鳥刺しは食用の鳥・姿を鑑賞する鳥・鳴き声を楽しむための鳥等、様々な鳥を獲ったらしいですが、大崎で演じているものは、食用のヒヨドリを獲る鳥刺しです。現在、芸として行われている鳥刺しは昔から残っていた唄に動作をつけたものです。

■古民謡
 かつては「大崎そばの会」にて草取唄、粉擦り唄、松坂などが唄われていましたが、現在は出雲節と大崎ハンヤが多く演じられています。

 出雲節は、島根県におこり北前船で日本海を北上する内、船(舟)方節と変化していきましたが、大崎には元唄に近いと思われる出雲節が伝えられています。その文句について何種類もありますが、その時々で2種類ほど演じられています。

 一方、ハンヤ節は佐渡おけさの元になった唄です。ハンヤは九州でおこった後、全国に広がり、その系統の唄が各地に残っています。佐渡島では赤泊の山田のハンヤが有名ですが、大崎にも残っていて古老より教えてもらった節に大崎に因んだ文句で、さらに動作を付けて演じています。

​白山神社の能舞台

諏訪神社(羽茂大崎)

出雲節

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